キンカンのパウンドケーキが人気です。

クッキーやパウンドケーキはパンが休みの日につくるんですが、
最近は毎週作っていて、大変ありがたいけどちょっと大変です。
特にキンカンは種取りがチョー大変なんです。
1個1個小さいキンカンに5~6箇所切れ目を入れ、
一度ボイルしたあと竹串で丁寧に種を取り除きます。
その後、焼酎と洗双糖で煮詰めて完成です。
なんといってもこの種取りが大変なんだ。
これさえなけりゃどんなに楽か。
というわけで、
今日、種無しのキンカンを3本、畑の隅に植えました。

まぁ、このキンカンがたわわに実って
お店のパウンドケーキとして登場するには何年かかかるとは思いますが、
それまでは夜なべしながら種取り頑張ります。
キンカンのパウンドケーキ、
今年は3月いっぱいくらいまでと思うので、お早めに!

クッキーやパウンドケーキはパンが休みの日につくるんですが、
最近は毎週作っていて、大変ありがたいけどちょっと大変です。
特にキンカンは種取りがチョー大変なんです。
1個1個小さいキンカンに5~6箇所切れ目を入れ、
一度ボイルしたあと竹串で丁寧に種を取り除きます。
その後、焼酎と洗双糖で煮詰めて完成です。
なんといってもこの種取りが大変なんだ。
これさえなけりゃどんなに楽か。
というわけで、
今日、種無しのキンカンを3本、畑の隅に植えました。

まぁ、このキンカンがたわわに実って
お店のパウンドケーキとして登場するには何年かかかるとは思いますが、
それまでは夜なべしながら種取り頑張ります。
キンカンのパウンドケーキ、
今年は3月いっぱいくらいまでと思うので、お早めに!
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2014.02.02 カテゴリ: 日常
50にして・・・その2
先日紹介した「独りだけのウィルダネス」リチャード・ブローンネク著の最後の方に
16ヶ月暮らしたアラスカの山での生活を終えるにあたって、リチャードは次のように綴っています。
『必要?
世の中のどれほど多くの人間がこの言葉に惑わされて、日々わずわらしい生活を送っていることか。
人間は必要の概念をどんどん水膨れさせていつの間にかあまりにも多くの物に依存する生活を作り上げてしまった。
物だけではない。あまりにも大勢の他人に依存しなければやっていけない生活になってしまっているのだ。
(中略)
「私は本当にこんなものが必要なのだろうか?」
と自分に問いかけつつ身の周りを見渡したとしたら、
平均的なアメリカ人の家庭からどれほど大量のガラクタ類が放り出されることになるか。
彼らが所有している大部分のものは、ちょっとした余分の快適さ、ちょっとした時間の節約のために存在しているに過ぎないと、私は思う。
快適さというのは曲者だ。
ある人間にとっては快適な物が、別の人間にとっては不快の種になる。
人間は昔みたいに体を使ってみっちり働くことをしなくなってしまった。
ひたすら苦しい労働を避けて、快適さばかりを追い求めた結果、逆に快適さを感じる心を失いつつあるのだ。
私が一日の山歩きから帰って体を休める硬いベッドの快適さときたら、驚くべきものだというのに。
(中略)
もし、ここで暮らしているあいだに重病に罹ったらどうしようかと、私はよく考えた。
脚の骨を折ってしまったら?大怪我をしたら?虫垂炎になったら?きりなく湧いてくるその類の不安は、すぐに心から追いたてることにした。
なぜ、まだ現実に起こっていないことについて思いわずらわなければならないのか?
これから起こるかもしれないことを不安がってばかりいるのは健全な時間の過ごし方ではない。
人生の暗い影の部分ばかりを見つめて生きる人間は愚か者だ。
岩崩れに巻きこまれたり、崖から転落した場合のこともたまに頭をかすめたが、これはもっと簡単にケリがついた。
山に住む大型の動物たちがそういう目にあった時するように私もすればいいのだ。
即ち、運命を甘受すること。山の中で朽ち果てること。
死の時が来て、神の姿を目にすることが本当にできるものなら、このウィルダーネスのなかこそ彼との会見に最もふさわしい場所ではないか。』
ちょっと長くなりましたが、
いかがですか?
言い尽くされた文明批判に聞こえるかもしれませんが、
これが50年ほど前に書かれたこと、
リチャード自身が16ヶ月にわたって山での生活を実践してきたこと、
そしてなにより、
その後、一旦街へ帰ったリチャードが再びアラスカの山へ戻り、
残りの人生の30年間をこの地で過ごしたこと、
それらの事実が、この言葉をより心に響くものにしているのかもしれません。
今回、20数年ぶりにこの本を読み直してみて、
リチャードと同じ50歳になった自分はどうだろうか?
見栄や、世間体、物欲、先への不安、そんなものに縛られ、
20代のあの頃、「独りだけのウィルダーネス」を読んで感動し、憧れた
あの頃の自分からは少しづつずれてきている様な、そんな違和感を感じています。
あまりにも複雑になってしまった現代社会、
50歳を機に、これまで溜め込んできた不必要なものを少しづつ削ぎ落としていく、
そんな歳になってきたのだと感じています。
もっとシンプルに、
もっと単純に
もっと素直に・・・。
そういえば、宮沢賢治もこう言っていましたよね、
『・・・・前略
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしはなりたい』
でくのぼーでいいです。
そういうものに私もなりたい。
そういえば以前、うちの店のトイレには宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の色紙を貼っていました。
その頃は、まだそんな気持ちが少しは残っていたんですかね・・・。
16ヶ月暮らしたアラスカの山での生活を終えるにあたって、リチャードは次のように綴っています。
『必要?
世の中のどれほど多くの人間がこの言葉に惑わされて、日々わずわらしい生活を送っていることか。
人間は必要の概念をどんどん水膨れさせていつの間にかあまりにも多くの物に依存する生活を作り上げてしまった。
物だけではない。あまりにも大勢の他人に依存しなければやっていけない生活になってしまっているのだ。
(中略)
「私は本当にこんなものが必要なのだろうか?」
と自分に問いかけつつ身の周りを見渡したとしたら、
平均的なアメリカ人の家庭からどれほど大量のガラクタ類が放り出されることになるか。
彼らが所有している大部分のものは、ちょっとした余分の快適さ、ちょっとした時間の節約のために存在しているに過ぎないと、私は思う。
快適さというのは曲者だ。
ある人間にとっては快適な物が、別の人間にとっては不快の種になる。
人間は昔みたいに体を使ってみっちり働くことをしなくなってしまった。
ひたすら苦しい労働を避けて、快適さばかりを追い求めた結果、逆に快適さを感じる心を失いつつあるのだ。
私が一日の山歩きから帰って体を休める硬いベッドの快適さときたら、驚くべきものだというのに。
(中略)
もし、ここで暮らしているあいだに重病に罹ったらどうしようかと、私はよく考えた。
脚の骨を折ってしまったら?大怪我をしたら?虫垂炎になったら?きりなく湧いてくるその類の不安は、すぐに心から追いたてることにした。
なぜ、まだ現実に起こっていないことについて思いわずらわなければならないのか?
これから起こるかもしれないことを不安がってばかりいるのは健全な時間の過ごし方ではない。
人生の暗い影の部分ばかりを見つめて生きる人間は愚か者だ。
岩崩れに巻きこまれたり、崖から転落した場合のこともたまに頭をかすめたが、これはもっと簡単にケリがついた。
山に住む大型の動物たちがそういう目にあった時するように私もすればいいのだ。
即ち、運命を甘受すること。山の中で朽ち果てること。
死の時が来て、神の姿を目にすることが本当にできるものなら、このウィルダーネスのなかこそ彼との会見に最もふさわしい場所ではないか。』
ちょっと長くなりましたが、
いかがですか?
言い尽くされた文明批判に聞こえるかもしれませんが、
これが50年ほど前に書かれたこと、
リチャード自身が16ヶ月にわたって山での生活を実践してきたこと、
そしてなにより、
その後、一旦街へ帰ったリチャードが再びアラスカの山へ戻り、
残りの人生の30年間をこの地で過ごしたこと、
それらの事実が、この言葉をより心に響くものにしているのかもしれません。
今回、20数年ぶりにこの本を読み直してみて、
リチャードと同じ50歳になった自分はどうだろうか?
見栄や、世間体、物欲、先への不安、そんなものに縛られ、
20代のあの頃、「独りだけのウィルダーネス」を読んで感動し、憧れた
あの頃の自分からは少しづつずれてきている様な、そんな違和感を感じています。
あまりにも複雑になってしまった現代社会、
50歳を機に、これまで溜め込んできた不必要なものを少しづつ削ぎ落としていく、
そんな歳になってきたのだと感じています。
もっとシンプルに、
もっと単純に
もっと素直に・・・。
そういえば、宮沢賢治もこう言っていましたよね、
『・・・・前略
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしはなりたい』
でくのぼーでいいです。
そういうものに私もなりたい。
そういえば以前、うちの店のトイレには宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の色紙を貼っていました。
その頃は、まだそんな気持ちが少しは残っていたんですかね・・・。